2024年4月15日月曜日

聖ヒルデガルドの地を訪れて

 私が初めて聖ヒルデガルド フォン ビンゲンのことを知ったのは、今から20年ほど前、フランクフルト大学の図書館でDendermondeのファクシミリを手にしたことがきっかけで、そのネウマ譜を見たとき、これを歌ってみたい!と本能的に思ったのが最初である。しかも、その後、ビンゲンまで足を運んだにも関わらず、惜しくも病気にかかりやむを得ず帰らなければならなくなってしまった。

そして、今20年後ついにその夢が叶い、私は聖ヒルデガルドの設立した、アイビンゲンの修道院で、5日間を過ごすことができたのだ。なんという幸せだろう!しかも、レベッカ スチュワート師による聖ヒルデガルドの講習を受けることができた。

実は10年ほど前から私は毎月、満月の夜に聖ヒルデガルドの歌と祈りの会の指揮を始めていて、その音楽の素晴らしさには圧倒していた。まだすべての曲を知っているわけではないし、自分の知識の物足りなさや、もっとインスピレーションが欲しいと思っていたころであった。

アイビンゲンの修道院は、今もなお、聖ヒルデガルドの精神を受け継ぎ、修道女たちは年に一度、ヒルデガルドの曲を歌っている。幸運なことに、私たちは、修道女からも、ヒルデガルドの音楽の指導にあたることができた。彼女たちは、ファクシミリではなく、ネウマ譜のモダン譜から歌っているため、少し残念には思ったのだが、歌の奏法や、(教会での響きをいかに生かしつつ歌うか)、彼女の指揮をする手の動かし方も、ドイツのラテン語で歌っていることにも素晴らしいと思った。

私たちが歌ったのは”Karitas Habundat”で、この曲の中には3回の神の愛が示されているとのことであった。前半では神ご自身、中間では宇宙を、そして後半では神が地に人間を与えられたことを表している。しかもこの中で”高き”という歌詞では音域が低く、”低い”という歌詞では音域が高くされていることが注目できる。まるでそれは、人が天を見上げることと、神が人を見守る感覚に近い気がしてならない。

毎日5時半と、7時半の朝のミサ、17時半の夕拝に参加することができたのは、素晴らしい経験だった。すべてラテン語での詩編の祈りで、親切にもドイツ語の翻訳が読めるようになっていた。ある日のミサの中で、”わたしたちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。”コリントII4章18節の言葉の中で、はっとさせられるものがあった。まさに、音楽は目には見えないもので、感動したり、インスピレーションを得るときは、言葉にはならないものであると思った。

レベッカ スチュワート師は、私の人生の最高の指導者で、彼女の言葉には圧倒するものがある。彼女が特に今回私に示したのは、それこそ言葉にならないものが多いのだが、ファクシミリ(楽譜そのもの)は聖なるものではない。ということ。私には、修道女たちがファクシミリで歌わないのがショックだったのだが、スチュワート師は、それを超えたもの、すなわち楽譜ではなく、音楽そのものが聖なるものであると主張した。聖ヒルデガルド自身、彼女の作曲した曲は自分で筆記したわけではないのだ。それは、彼女の弟子たちが筆記したわけで、その中でDendermondeは一番古いものなのだが、Risencodexと比較すると、やはり少し違いがあるものの、ほとんど正確に残されているには驚かされる。グイードの手によって正確な音程が示されたという説も理解できる。しかもそれは、驚くことに今現在もインド音楽で行われている奏法なのだ。すなわち、師から弟子には、楽譜なしに耳から伝えられ、またグイードの手によって正確な音程が伝えられるという方法。

西洋音楽は、チャント”祈りの音楽”を失ってしまった。それは残念ながら今日にも至る。その起源はというと、16世紀より調三度、すなわちDiatonik(全音階)の誕生によって、西洋音楽は、そのModal(教会旋法)音楽からTonart(調性)音楽へと変わっていったのである。

これからの時代、私たちはもう自己(エゴ)ではない、次の高次元へと進んでいくべきだと個人的には信じている。わたしたちは、ひとつで、世界が平和になるように、祈る。





2023年5月23日火曜日

レベッカ スチュワート師による講習

 私にとって最高の師であり、永遠の憧れであるレベッカ・スチュワート師に今回久しぶりに再会し、その講習会を奇跡的に受けることができた。

彼女に初めて出会ったのは、2005年まだフランクフルトで学生をしていたころ、モリース・ファン・リースハウト氏の指導により、ティールブルグを訪れたのが初めてだった。

その当時、レベッカのアンサンブルによる、ヨハネス・オケゲムのミサ My Myの録音を初めて聴いた時、大変大きな衝撃と、人生最大とも言える大きな影響を受けた。

卒業後、ティールブルグでレベッカのもとで指導を受けるのが夢であったが、残念ながら、学校は無くなってしまうという結果になった。それでも唯一の私の救いは、1年に一度のモリースの指揮によるアンサンブルSchola stralsundensisでの演奏会であった。

実はそのアンサンブルをきっかけに、私は人生を共にするパートナー、最愛なる夫に出会うこととなる。彼とその同僚とレベッカによって、ハレで講習会を続けていたが、私は子育てに忙しく、参加ができずにいたのがもどかしかった。

やっと長女が小学校に行くようになり、私は久しぶりにレベッカに再会できた。

しかし、私自身、いつの間にか、音楽とは程遠いところにいることを察したのだ。

そもそも、モダール音楽は、バロックやクラッシックのような音調の音楽とは全く異なるもので、根本的に、小説線がない。それどころか、拍感というものすら存在しない。

もちろん、Tempus perfectum などのような拍子の指定はある。しかし、それそのものはひとつの天文学的な要素を含んでおり、多くはそのテキストによっては、象徴的なものを生み出すものと解釈できるのではないだろうか。つまり、3は三位一体であり、2は人間的なものを示す。

また、ソルミゼーションには多くの意味が隠されている。

mi= キリスト

fa = 父なる神

sol= 約束の地 楽園

mi から faによる移行には、人として肉体を持ったキリストが神との架け橋となったことを意味する。

音楽そのものの実態は、キリスト教精神、あるいはもっと高次な、天界なる音楽、宇宙そのものと一体になっており、私たちは残念ながら、その古い”言葉”を失ってしまったのだ。

音響そのものはたえず ヴァイブレーションとして身近に存在しており、そのヴァイブレーション、すなわち聖霊なるものに、チャネリングするのが、音楽のもつ本当の意味であり、私たちが、この地上で生きている存在の中で、”調和”することが最高の行為であること。

しかし、現実は、”自我”との闘いがあり、”無”に成りえない。自己嫌悪に陥るのだ。

レベッカがインドで習った音楽は、まさに、純粋なる天界の音楽を実際に耳にしたことだろう。そして、彼女が老体に鞭打って、弟子たちに教えようとして下さっているのに、私は何年も、遠い世界にいた気がする。

音楽とは、そもそも、”祈り”であり、スピリチュアルな世界に入ることのできる手段である。もちろん、その手段は音楽だけとは限らないが。

インスピレーションとは、"In Spirit " 魂が入りこむということ・・・・・・・・・・。


若いころは、いつだって焦りを感じた。何か学びそびれて置いて行かれている気がした。

自分の世界がすべてだった。

大地に足を踏み、雨上がりの緑の力に圧倒される。

この大地に根を張る植物たちは、あるがままだと。受けるがまま。

人間は地に産まれ、地を喰い、地に還っていく。

もっと、聴き入れて、受け入れていけばいいと思った。

2022年12月6日火曜日

バッハ フランス組曲のソロガンバへの編曲

 https://youtu.be/S_XSkKhzkbU

バッハのフランス組曲をヴィオラ・ダ・ガンバのために書き下ろしたのは、一方ではバッハが残したヴィオラ・ダ・ガンバのための狭いレパートリーを広げたいという思いからであった。一方、これらのトランスクリプションは、バッハの当時のメンタリティに非常によく対応しているという確信もある。なにしろ、バッハ自身がヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲をチェンバロ用に編曲しているし、シャルル・デューパールの組曲(バッハ自身がフランス組曲をコピーしているので、おそらくバッハのインスピレーション源)はデューパールが自ら2版を印刷したのだ。チェンバロ独奏のためのもの、メロディ楽器と通奏低音のためのもの。また、フランスの「ヴィオ-―ルのオルフェウス」と呼ばれるマラン・マレは、まずヴィオール独奏(旋律と低音の潜在的多声部)のための作品を構想し、それに通奏低音のアド・リビタムを加えたことが知られています。
しかし、チェンバロ・ソロからヴィオラ・ダ・ガンバ・ソロへのトランスクリプションは、大きな、しかし楽しい挑戦であった。ヴァイオリン系の楽器が持つダブルストッピングの可能性をはるかに超えた広い音域と和音奏法の可能性は、ヴィオラ・ダ・ガンバの強みである。しかし同時に、ヴィオラ・ダ・ガンバの指板上の鍵盤上の10本の指が奏でるポリフォニックな声部を、低音や旋律の露出を抑えつつ、音楽的に意味のあるフレージングや表現で表現することの難しさが残る。バッハの組曲は、ドイツ音楽評議会の「Neustart Kultur」助成金によって実現したもので、大変感謝している。今回のトランスクリプションが、多くの仲間を喜ばせ、演奏の実践に新たなアイディアを与えてくれることを祈る。
伊藤美代子、ハレ(ザール州)、202211

Youtube

https://youtu.be/S_XSkKhzkbU


2020年11月25日水曜日

日本の童謡を録音した、その理由について

 子育てに追われる日々、あっという間に時間がたつこの頃。もう5年も経ってしまった。

ふと、自分を振り返ってみると、何か物悲しい、物足りない気持ちに陥る。

同年配の人たちが活躍する姿を見て、自己嫌悪に落ちたりする。

でも、母親となった経験は、何事にも代えがたい貴重な体験だと思う。

人の使命は、有名になって世に名を残すことがすべてではない。

とはいえ、世間と離れた母親業にだけいると、自分だけ取り残されてしまった、やり切れないような思いがするのは、私だけであろうか・・・。

多くの女性が、特に西ドイツは今でも産後から仕事に復帰するのが早い。

半年で、もう子供を保育園に預けてしまう。

音楽家の職業は、幸か不幸か、ちょうど幼稚園が終わった時間から始まる。

私も、小さな赤子を仕方なく預け、後ろ髪を引かれながら、仕事へ出かけて行ったその一人である。

そして、仕事を理由の一つに断乳したその一人である。

今となっては、なんでそんなことをしたのか、と逆に少し後悔もする。

でも、世の中の目を気にしつつも、うちの子供たちは、周りとは遅れて幼稚園に行かせたことは、私たちの誇りでもある。

その時のつらさは永遠のように感じるけれども、お母さん、お父さん、子供の育つのは早いですよ。と、皆さんに伝えたい。


とにかく、私にとって今、音楽は、自分の子供と切っても切れない関係にあるのだ。

夜な夜な続く夜泣きに、疲れた体と戦いながら、夜中歌った子守歌。

子供の寝顔をみて、ほっとして自分も寝てしまったり。

「お母さん、歌って」と、せがまれて一緒に歌った日本の子供の歌。

ちいちゃい、やわらかな手をひいて歩いてきた散歩道に、鼻歌。

私も小さいときにお母さんが何度も歌ってくれた私の思い出の歌たち。


今はドイツにいて、ドイツの生活をして、

海外留学してヴィオラ・ダ・ガンバを極めようと努力して、

西洋人になったかのようにしてきたけれど、

私は日本人で、その血は変えられない。

この曲たちを歌おうと決意する前は、

様々な迷いや葛藤があり、その思いを探っていったら

私の奥深くに眠っていた過去の少女時代の私が、

臆病で、不安で、自信の無い私が泣いているのを見つけた。

私はその小さい私を心から抱きしめて、

もう大丈夫だ。心配ないよ。と囁いた。


私は日本の楽器について何一つ知らないし、

ヴィオラ・ダ・ガンバで日本の曲を弾くのは邪道だと思われるかもしれない。

確かにガンバは西洋の楽器ではあるが、

私にとって楽器は、自分の言葉を伝える手段であって、

国境も何もない。すべてはつながっていると信じている。

音楽ですら、世界共通の言葉であると思っている。


この曲に込めたい気持ちは、いろいろではあるけれど、

まず、祈り。


この難しい時期を乗り越えられるように。


そして、子供たちをもっと愛してほしいということ。

世界中のお母さんたちに伝えたいです。








2020年4月20日月曜日

Hildegard von Bingenの魔法

昨年の5月から、かつてからの夢であった、Hildegard von Bingenの祈りと歌の会が
毎月満月の晩、19時より行われてきた。
しかし、コロナウイルスの影響で、教会での活動はすべて中止。
せっかく続けてきたことだったのに、これからの見通しも立たないので、
これからどのようにしていったらよいのか、考えてみた。

そして、思いついたのが、録音。
子供が寝静まったころ、大体、夜21時ごろ、ひっそり一人で誰もいない教会を訪れる。
19時までは、教会は解放されていて、祈りのためにろうそくがつけてあり、
中に入ると、暖かいろうそくの炎がひっそりと揺れている。
それをみると、なんだか、ああ、帰ってきたよ。という不思議な安堵感がある。

4月とはいえ、まだ寒い。教会の中はその引き締まった空気が、また心地よい。
学生をしていたころは、何時間も練習に向かっていたけれど、
今となっては子育てで忙しく、練習する暇もない。
やっと下の子も、大きくなって落ち着いてきたというのもある。

そして、音楽と向き合う。
ヒルデガルド フォン ビンゲンは、ドイツの中世の修道女で、
その多くは薬草や、ハーブの自然医療法などで知られている。
が、音楽も彼女自身が作曲されていたのは、あまり知られていないのではないだろうか。

彼女ならではの自由な音楽の思想。グレゴリオ聖歌とは全く違った新しい曲想。
驚くほどエロチックで、ある意味人間くさい表現は、魅力的である。
特に、教会旋法の幅を超えた音域の広さと、その自由な発想には、圧巻である。

そして何より、その女性らしい言葉の表現。当時のRiesen codexからのネウマ譜にも
その表現力の広さが伺える。まず、その信仰の思いの篤さが、生生しく伝わってくるのだ。特に、”おお!”とい感嘆詞で始まる表現や、特に1曲の中でも数回でてくる、
Quillisma(声を震わせる)や、Pressus(同じ音が2回)の表現などが印象的である。
また、特に5度は、とても強い安定した印象を受け、ボルドゥン(保続音)からの不協和音、協和音の巧妙なコントラストは見落とせない。

ヒルデガルドの魅力について書いたらきりがないが、
その第一の魅力としては、”インスピレーション”だと思う。
彼女の曲は、中世にして、とても新しい。今となっても、若い枝となって芽吹いてくるような感覚がある。それほどまでの彼女の内の中のビジョンがしっかりと見えていて、
ボケたものではなかったに違いない。
おなじ女性として、彼女の強い霊的な音楽に、毎回感動させられるのだ。


" O Pastor Animarum" ”おお、魂の牧者よ”
Pastor of our hearts and Voice
primordial:
you spoke before the world was
we sprang to hear.
Now we languish,
we are wretched, ill.
Set us free! We beseech,
make us well.
私の魂の牧者よ。
すべてを創造された主よ。
あなたは私の愛するお方
哀れな私たちを自由にしてください。
私たちの病から解放してください!

Karitas habundat in omnia, 
de imis excellentissima super sidera,
 quia summo Regi osculum pacis dedit. 
 Charity rising from the vast abyss past the stars above abounds in all worlds, unbounded love, and with spousal kiss disarms the sky- king.

2020年4月11日土曜日

危機という時は、チャンスでもある。

時に、思いもよらないことも起こる。
コロナによる、世界危機。
音楽家の仕事は、真っ先にキャンセルされた。
ガンバ弾きにとって、受難曲の演奏会のキャンセルは辛い。
私にとって、ガンバを始めたきっかけとなった、バッハのマタイ受難曲。
受難節に、祈りのような音楽を奏でることは、毎年恒例のことだった。
でも、今年は・・・その一番大事な時間が省かれてしまった。

しかし、この演奏会がキャンセルになったため、
私は主人とハレに住む、もう2人の音楽家たちとともに
Alexander Agricola のLamentation Jeremiaeを歌うこととなった。

もちろん演奏会ではなく、Video撮影という形になったが、
私にとってこれは、受難節にはなくてはならない大切な時間に思えた。

もう一つ、去年の5月からもうすぐ1年続けることとなるはずの、
毎月一度満月の日の夜に集まる、ヒルデガルドの祈りと歌の会も、キャンセル。
4年に一度のスーパームーンのこの夜、歌えないのは残念だったこともあり、
この機会に歌うことができるのは、本当に幸せなことだった。

このLamentation 哀歌は、聖書の哀歌2章からなる。
旧約聖書の神は、容赦しない。壮絶な怒りによってイスラエルの民でさえも
滅ぼされる。そのコントラストは、イエスの受難の痛みとよく似ている。

この受難の時、そして、コロナの影響で、普通ではない環境。
いつもとは違う、なにか死と隣り合わせを予感させる深刻さが、
この曲の神話が、何か実話のように実感させられる。
哀歌の聖書の箇所は、何か救いがないように思えるが、
最後に、「神様、どうして私をお見捨てになったのですか・・・」の節は
まさにキリストの最後の言葉でもあり、そこに救いがあることを実感するのである。
Online-Konzert Karfreitag 2020 Johanneskirche

Alexander Agricola (um1455-1506): Lamentationes Jeremiae Prophetae /
Die Klagelieder Jeremias
Gregorianik: Responsorien zur Karwoche
Miyoko Ito – Cantus
Nora Rutte – Altus
Martin Erhardt – Tenor
Till Malte Mossner – Bassus
録音は、このサイトをクリックしてお聴きください。





2019年10月25日金曜日

便利さを理由に、本当のものがわからなくなっているということ

最近思うこと。
消費者は、便利さを理由に、本当のものがわからなくなっている危険性があるということ。

例えば、私たちの食品に関しても、知らないうちに体に悪いものを食べさせられている。
最近観たドキュメンタリーでは、食品の裏に表示されているもの以外にも、
安心できないものが含まれていたり、それが正しく記載されていなかったりする。
ドイツではよく見かけるNatuerliche Aroma (自然的香料)などは、疑ってかかった方がいいらしい。
野菜だけでなく、肉類も、どこでどのように育てられたか、Bioの製品であっても、
汚染された家畜のえさを与えたものは、当然危険性が高まるだろう。
そして、最近読んだ中でも、衣服に関して、ヒートテックの物は体に害を及ぼすらしい。
それだけではない、この空気中でさえも、目に見えない放射能に脅かされ、
海水には、プラスチックが浮かび、目に見えない形で悪影響を及ぼしている。
体だけではない、心も、疲れ果てている。

私たちは、何を信じて、何を食べ、何を着て、どこに住めばよいのだろう。
私たちの将来だけでなく、子供たちの新しい世代は、どうやって生きていくのだろう。

先日、ある本にであった。
若杉友子さんの“一汁一菜”という本。
いわゆる、昔ながらの生き方。理想といえば理想。だけど感動した。

”食養は、自然にかえっていく生活法です。
私たちの一番身近な自然は、からだです。だから昔の人はからだのことを”小宇宙”と呼んだのです。そして、この宇宙の大きなうねりに小宇宙を共鳴させながら生きてきました。
大地の生命をいただく食は、その小宇宙、大宇宙と調和するものでなくてはいけません”

この教訓は、食だけではない。
なぜ、私たちが、”古楽”を”わざわざ弾いてるのかという疑問の答えでもある。
ただ単に、昔の楽器を演奏して、昔の音楽を追求しているわけではない。
昔の人の思想であった、”小宇宙”に、大宇宙を調和させることに意味があるのだ。

そして、”便利さ”ゆえに、失ってしまってはいけない。
時間をかけて、何かをすること。
こころを込めて、向き合うこと。

私たちは、そろそろ自然にかえっていかなければならない。
時の流れに、自分を見失ってはいけない。
本当に良いものを見極めないといけない。

とはいえ、この選択肢の多い世の中、何が本物かを見極めるのは難しい。
プラスチックを減らしたくても、スーパーで買い物をすれば、ごみがでる。
でも、少しでも歩めたら。それは大きな進歩だと思う。